日光市の市街地は、神橋を境に東町、西町に大別される。匠町は、西町の社寺前地域の一角で、江戸時代から続いた町名の板挽町を大工町の一部が合併し、昭和44年(1969)の町名変更で匠町になった。
当時の板挽、大工両町名は、日光東照宮の造営と深いかかわりがある。匠は職人、大工の意味で板挽、大工の両町名を集約した町名でとして匠町と名付けられた。
東照宮が造営されたのは、江戸・寛永13年(1636)。全国から大工を始め絵師、塗師など六職の職人が日光に集められ、造営に当たった職人は延べ454万人、大工だけでも33万人を数えたと伝えられる。しかも陽明門に代表される彩色、彫刻を駆使した絢爛豪華な建造物23棟が、わずか1年5か月の短期間で造られたという。
東照宮造営に際し、大工木挽の作業小屋が置かれたことから板挽町と呼ばれ、大工町は大工職人や下職人たちが多数住んでいたためその名が付いた。
町名変更後の匠町は、国道120号線沿いの門前物産街と大谷川に挟まれた地域で、現在は静寂な住宅地域。町名の由来となった職人集落の様相はなく、町名だけにその歴史をとどめている。
① 田母沢街区公園
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『旧御用邸』が 栃木県の都市計画改修事業として『日光田母澤御用邸記念公園』に整備し、補助事業で整備される
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② 町名改称之碑
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昭和44年(1969)住居表示を行われ、板挽町と大工町を 癈して匠町、中本町・下本町・袋町・四軒町を合わせて本町とした碑
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③ 磐裂神社
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虚空蔵菩薩を祀っていたが、明治2年(1869)の神仏分離令 により、「磐裂神社」と改め、磐裂の神と根裂の神を祀っている
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④ 石升
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湧水を水源とし、自然石をくり抜いた升を石管で 繋いだ大正時代の水道で、碑文には、大正天皇御即位記念水道とある
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⑤ 家体庫(公民館)
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弥生祭付祭に用いられる本家体、若しくは、花家体を格納するためのもので、平成18年(2006)に落成する
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⑥ 向山天神社
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凡そ340年前この辺りに住み社寺殿堂の営繕をした六職人の大工棟梁鈴木弥次右衛門ら、十数名が向山に祀った古祠
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⑦ 浄光寺
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この浄光寺は、還源山妙覚院浄光寺といい、天台宗の古刹です
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明治26年(1893)10月に建設された日光発電所は、東京電力として現存する最古で最初の発電所
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⑨ 西町太子堂
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聖徳太子が諸国の名工を集め、技術の粋を尽くした法隆寺を建立したことにあやかり、技術の向上を願い祀られている
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⑩ 大正天皇御製歌碑
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【衣でも しぶきにぬれて 大谷川 月夜涼しく 岸づたいせり】と詠われています
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⑪ 慈雲寺
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憾満ヶ淵は、不動明王が出現する地であるとの伝説を持っていたり、いろいろなことがあったので、ここを統括した寺である
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⑫ 憾満ヶ淵
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日光八景の一つ、特に、「驟雨の憾満」と云われて、”雨が降ると奇岩や巨岩が濡れて、その美しさを倍加するは有名
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⑬ 栗木ヶ淵
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憾満が淵と比べると見劣りするが、淵という名が付くだけあって、景勝地ではある
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⑭ 銭沢不動尊
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銭沢のほとりにあるので、この名をもつ。火防の神として信仰された
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⑮ 十日稲荷神社
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寛政2年の記録には「狐山稲荷神社」と明記、その後には「燈火稲荷神社」と書かれている。真っ赤な鳥居が立ち並ぶ山道の先に「十日稲荷神社」がある
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⑯ 糠塚稲荷神社
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この糠塚は、別名「宝塚」とも呼ばれ、朝日姫が陸奥の国の長者の娘だったことから、姫の亡骸と共にたくさんの金銀財宝を副葬したと伝えられる
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道しるべ A 風流物
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昔の人は、風流な、いや、粋な遊び心をもって暮らしていたものだ。
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道しるべ B 巡礼物
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もう一方は、父母への「孝」、社会への「報恩」のこころの成す技であろうか。
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道しるべ C 有名人寄進物
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紀文大尽が、自分の俳句の発表を兼ねて「道しるべ」を寄進してくれたもの。
現在は、萩垣面の「松屋敷」にある。
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〒321-1433 栃木県日光市匠町
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