⑨西町太子堂

 この太子堂は、聖徳太子が祀られております。なぜ聖徳太子が祀られているのかと申しますと、聖徳太子が諸国の名工を集め、技術の粋を尽くした法隆寺を建立したことにあやかり、技術の向上を願って信仰することになったということです。因みに、この西町太子堂は、日光の西町に住んでいるいろいろな職種のいわゆる職人達が、講を作り、お堂を建立し、太子をお祀りしているものです。
 古い記録によると、最初の祠が建てられたのは、元和三年(1617)から安永四年(1775)の間で、その後、数回立て替えられて、現在の祠は、昭和六十二(1987)に建立されました。嘉永二年(1849)の送り帳も残されています。
 通常、太子の忌日(旧暦二月二十二日)をもって祀り日とするが、西町太子講では、五月二十二日に、太子会(聖霊会)を行っています。
 聖徳太子は、用命天皇の第二皇子、母は、穴穂部間人皇后。名は、厩戸豊聡耳皇子、聖徳太子は諡名。上宮王ともいう。叔母にあたる推古天皇の摂政として内外の政治を整備した。冠位十二階を定め、憲法十七条を制定。仏教の興隆に尽力し、諸国に寺院を建立する等多くの業績を残され、「日本のお釈迦様」とも言われ、多くの人々に信仰されています。

正面からの西町太子堂
正面からの西町太子堂
左横からの西町太子堂
左横からの西町太子堂

 一つの歴史的資料にと、「西町太子堂改修について」なる勧進文面らしきものがありましたので、御披露いたします。
 なお、下記の品物の一部は、茨城県立歴史館に貸出し、「 職 ―その技術(わざ)と伝承― 」というテーマの展示会(平成五年十月実施)の展示物として広く茨城県民に披露された経緯もございます。
 昭和六十一年(1986)五月二十二日、河内屋において、西町太子講総会が開催され
ました。その席上、当番から、太子堂並びに太子像の傷みが激しく、このままでは手の施しようもなくなるので、何とか早めに改修しては、との意見が出され、会員諸氏も早急に考えようとのことで、現地を視察し、改めて太子像を拝んでみて、余りの損傷のひどさに驚いた次第でした。
 改修するについては、何が、何時の時代に出来たのかを知りたいと思い、伝来の遺品を改めて一つ一つ手にとって見て驚いたことには、「高膳」は、今から二百十年ぐらい前のものであることが、判ってきました。奉納された方の名前と年号が、裏面に書いてあります。

   安永四年(1775)未正月吉日
     江田林平貞利
 大工町の磐裂神社境内に建っている庚申塔にも、やはり同じ安永四年の十月に、この方の名前が刻まれているので、江田林平貞利は大工町の方と判りました。
 尚、年号は新しくなるが、
   文久三年(1863)亥
     文平
     久次
     助七
 この三人の方々が奉納された「お椀」が遺されています。姓が書いてないので、何処の町内の方かは判明出来ません。
 「太子像」が、この時代に作られたか、またもっと古い時代、例えば東照宮御造営の時に西町に生まれた職人の手によって作られたか、今では残念ながら知る術もありません。
 御堂の中に遺されていた改修時の「棟札」に
   文化三年(1806)寅九月吉日
      江都 平内 大隅
         鈴木勘十郎
         西町 職人
 と書いてあります。文化三年に平内大隅が日光に来ていたことは、「御番所日記」に当たっていても間違いなく、大猷院を造営した有名な大棟梁の子孫であることも判りました。「棟札」の裏には、当時の職人の名前も記されています。
 次に、改修された時期は、天保十三年で、
   天保十三年(1842)寅
     江都 楢崎庄右衛門
         中野長次郎
         西町職人中
 この後は、ずっと新しくなって、昭和三十三年の「棟札」が残っているが、明治、大正時代に改修がなされたかどうかは、何も残っていないので、判りません。
 もう一つ、「太子様の掛軸」で立派なものが、引継がれています。
   嘉永四年(1851)亥
     日光山 御絵師 法橋 了琢徳綱謹書
 この年、「東照宮本殿の修復成り正遷宮」と、日光市史にあるので、この掛軸もその時、何らかの謂れがあって戴いたものと思われます。
 この掛軸は輪王寺にある太子様の像と同じ絵師が書いた作品と聞かされています。
文書で遺っているのは、
   嘉永二年(1849)酉正月二十二日
     「太子講当番送帳」
   文久元年(1861)酉五月二十二日
      「太子講当番送帳」
 です。
 御一新の激動期においても、その後、明治、大正、昭和と太子講の当番送りは、連綿と引継がれており、昭和に入っての第二次世界大戦中に中断され、昭和三十一年(1956)から復活して今日に至っております。
 大正十一年(1922)には、二組あった太子講が一組に編成替えされた記録もあります。明治、大正時代の「判取帳」を見ると、当時の職人の方々の生活が、目に見えるようで、今の時代のお金のかけかたと比較しても随分とゆったりしていたように思われます。
 当時からの職人の方で、現在大工職として家業を継がれておられる方は、押木さん、大貫さんのみとなり、それぞれ四代目、五代目となっておられました。でも、令和2年9月現在では、押木さんが跡を継がれた方がおられずで、大貫さんのみとなっています。すると、六代目ですか。
 現在の西町太子会が、昭和四十八年(1973)に発足して、多くの会員をもって、太子講を年一回であるが今日続けられていることも、先祖の方々が、古文書に遺されているように、連綿と努力して引き継いでこられたお蔭と思われます。われわれは、このように、先代の方々が営々と努力して遺された「太子像」「太子堂」「太子講」の謂れある歴史を、今我々の世代で断つことなく、後世に伝えてゆくべき責任があると考え、誇りをもって改修事業に取組みたいと思うのであります。


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