⑧八坂神社

八坂神社参道入口
八坂神社参道入口
八坂神社正面遠景
八坂神社正面遠景
八坂神社正面近景
八坂神社正面近景
左前方からの八坂神社神輿庫
左前方からの八坂神社神輿
八坂神社神輿庫正面
八坂神社神輿庫正面

 京都市東山区祇園町にある「八坂神社」の末社(全国には八坂神社(祇園社)・牛頭天王社の名の神社は3000社以上あるという)の一つ。京都の3大祭りの一つである「祇園祭」はこの神社の祭りである。主祭神は、素戔鳴尊(すさのおのみこと)とされ、その妻神櫛稲田姫尊(くしなだひめのみこと)と八柱御子神(やはしろのみこがみ)ほかを配祀するとある。素戔鳴尊は、インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王と同体と考えられたところから「祇園社」「牛頭 天王社」と称したりもする。ところが、明治元年(1868)の神仏分離政策により「八坂神社」と改称する。牛頭天王は、疫病を防ぐ神であり、7世紀頃から庶民の間でも広く信仰されていた。医療技術が乏しかった当時は、疫病を防ぐ強い霊力を持つとされた牛頭天王信仰は、平安末期から中世にかけて燎原の火の如く広範囲に広まっていったのだという。近世に入ると国学者や神道家が現れてくるが、彼らにとって牛頭天王は誠に疎ましい目障りなものであったらしい。神道こそが絶対であるとして、神仏混淆・本地垂迹を排撃し、スサノオ神と習合している牛頭天王は許しがたいものであった。やがて明治維新となると、国学者たちが拠った 明治政府は、神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神としていた神社に対してはすべての祭神をスサノオ神に変えるか、若しくは、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めたという。しかし、ここ日光の西町では、神社名は、「八坂神社」となっているが、今でも「お天王さん」「お天王様」という詞は残っているし、祭旗・幟旗は「奉祭牛頭天王」と書かれて蔵に、その太くて長い棹は寺に大事に保管されている。昭和の年代には、この祭旗・幟旗が立てられた記録もある。

 また、創建年代等を調べていると次のようなことが分かった。

 明正天皇の御代(1629~43)に疫病が流行したため、明和2年(1765)6月15日、尾張国「津島神社」の 祭神牛頭天王の御分霊を勧進して社殿を建立し、御輿渡御行事を行なった。これにより、氏子は悪疫から免れて、ますます敬神の念を深めたとあり、創建は、明和2年(1765)である。そして、明治2年(1869)に社号を「八坂神社」と改めたとある。きっと「津島神社」から袂を分ち、京都の「八坂神社」の末社となり、祭神を牛頭天王から素戔鳴尊(すさのおのみこと)に改めたものと思われる。そして、昭和57年(1982)、本殿を再建したともあった。



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