この碑は、日光総合会館の玄関に向かって右側の植込みの中にある。また、通りの方から見ると、国道120号線の「安川町」交差点から別れて、田母沢御用邸の正門への道に入って直ぐ左側の大谷石で出来た【六かえる像】の隣にある。 明治元年(1868)3月、明治維新政府は、神仏分離令を布告、日光山は東照宮、二荒山神社、そして輪王寺は、満願寺にと寺号変更し、二社一寺へと分割された。千年来、神仏習合の歴史を持つ日光山でこれを完全に実施すると堂社が破壊され、日光の美観が失われると移転阻止の町民運動が 起こる。二社一寺の向かい側にあるこの大きな石碑には、日光町民630名の熱烈なる郷土愛と死を賭して最後まで奮闘し続けた 「落合・巴」両氏の物語が刻まれている。 明治4年(1871)1月8日、改めて、二社一寺に対し、それぞれの境内にある社堂並びに神仏の分離と共に僧侶神勤の禁止が厳命された。更に、満願寺に不幸が襲う、明治4年5月13日「満願寺全焼」、そのうえ旧幕時代に優遇されてきた俸禄を没収され、堂塔移転の財源に窮し、3年の移転延期が許された。明治7年(1874)2月移転の延期期間が終了する。この頃の満願寺では本坊を再興し得たものの10年後には無録となる。僅かな低限禄に寄って60名に及ぶ僧属の生活を支えるのが精一杯で、堂塔移転には全く手が回らなかった。この問題に重大関心を寄せていた町民は、旧来の美観が失われれば、我々の死活問題に関すると世論も沸騰した。 明治8年(1875)頃の町行政は、戸長制度であった。日光町は、東町7か町、西町10か町、戸数合計は630余りであった。そのうち戸長1名、副戸長2名、各町総代17名が栃木県令の監督の下に 町行政を行なっていた。神仏分離問題が重大化されるにつれ、三堂据置運動の総代を各町より選出した。更に、この総代の中から落合源七・巴快寛を部理代理人として委任し、2人が中心となって、嘆願書を持ち、一年余りに渡って、日光・栃木・東京間をお粗末な衣食や、寒暑と闘い、「わらじ履き」で奔走した。 日光町は、山間の地でかつ交通も不便であるため農商業での生活は不可能である。幸いに神社仏閣があり、参拝客や観光客が来るので、これによって町民は、生活が支えられ、ここで、寺社境内の殿堂を破却し、移転するというのは、町民の生活の権利を奪うことになる。町民は、旧来の殿堂全部の据え置きを県と中央官庁に強く嘆願した。特に、大久保利通内務卿には、投降前に再々嘆願書を提出し採択されている。岩倉具視右大臣にも口上書をもって力眼、更に、木戸孝允顧問も町民の心をよく知られていたという。 そして、明治9年(1876)明治天皇は、奥羽御巡幸の際、埼玉県の草加に行在所を置かれ、この日、日光代表は、草加に行って直訴したという。日光山に立ち寄った明治天皇は、有数の名所が荒廃している様を残念にお思いになり、【旧観を失うことなかれ!】とのお言葉と御手許金3,000円を下賜され日光の景観が保たれた。しかし、この事件で健康を害した 落合源七氏は御巡幸のお迎えの直後、問題の解決を見ずして他界することになった。 この石碑は、時の日光町民の決死的努力と死を賭して最後まで奮闘し続けた落合・巴両氏の物語が刻まれた顕彰碑である。 |
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