J.M.ガーディナーと真光教会 日光に初めて避暑に来た外国人、また、日光を外国へ紹介した人としてガーディナー氏夫妻は忘れることの出来ない人である。ジェームス・マクドナルド・ガーディナー氏は、明治10年(1877)、ハーバード大学建築学科を卒業し、英文学にも通じていた人である。ウイリアムス主教は、これからの日本のことを考えて教会や学校の建築に適当な技師が必要なこと、さらに科学や英文学を教える資格のある人を立教大学の校長として迎えたいと考えていた。その人選を米国聖公会伝道局に依頼した。その適任者として選ばれたのがガーディナー氏だった。 同氏は、明治13年(1880)に来日、学生を教えながら立教大学の設計を始め、東京築地に地上17メートルの塔のある立派な校舎を完成した。明治15年(1882)の末であった。以来同氏はウイリアムス主教と肝胆相照らす間柄となり、主教の意を理解してその働きを助けるとともに、主教の老後の良き友人であった。 ガーディナー夫人となったフローレンス・ローズ・ビットマン嬢はバージニア州の出身で、明治10年(1877)に立教女学校の二代目の校長として来日した。当時は、学校と言っても駿河台に家を借り、学生も15名と いう小規模なものであったが、同夫人は女子教育の発展に多大の貢献をした。 彼女は、翌年の7月初めて日光を訪れている。一方ガーディナー氏は、明治14年(1881)の夏、日光を訪れ、滞在中にビットマン嬢と婚約する。翌年の5月16日東京で結婚、以来毎年、夏休みを家族とともに山内の寺、安養院境内の離れを借りて過ごした。また、日曜日の主日には家族、友人とともに礼拝を捧げていた。 明治23年(1890)9月、宇都宮~ 日光間の鉄道が開通し、さらに、日光を訪れる外国人も増加したが、余りにも習慣が、違っていたためか、当時の日光の旅館では外国人を歓迎しなかった。ガーディナー氏は、ホテルの必要性を感じ、四軒町にあった金谷旅館の主人を説いて長男真一氏を立教大学に入学させた。同氏は、明治29年(1896)に卒業し、金谷ホテルを創設した。(ここでいう四軒町の金谷旅館は、開業が明治6年、現在の地での開業が明治26年なので、真一が創設したというより、明治29年からホテルの草創に関わったということであろう。また、ここでいう当時とは、明治1桁台から10年台位までで、20年代には、随分外国人が訪れるようになっており、この解釈は、明治10年台位までとしておきたい。)同ホテルは、箱根の冨士屋ホテルとともに日本最初の頃のホテルでもある。26年(1893)6月、立教大学校の校長を辞任したガーディナー氏は、その後米国ミッショ ンの建築技師として東京築地の聖31大聖堂を始め、各地に礼拝堂や学校を建てた。 明治32年(1899)、英米聖公会有志の努力によって、日光入町西谷の旧寺院跡(今の西参道付近)にガーディナーの設計による木造の礼拝堂が建てられた。えび茶色に塗られ、屋根に十字架が建つ礼拝堂は、日光における最初の洋式建築として、日光の名物の1つとなった。さらに、明治44年(1911)ガーディナーは、日光の山内の一角を借りて山荘を建てた。この家は、社寺に倣って赤く塗ってあるため地元の人には赤い門(赤門)と呼ばれた。また、現在の日光真光教会の礼拝堂は、「美術の町にみすぼらしい物は建てられない」と言ってガーディナー氏が設計したもので、大正3年(1914)8月6日 の変容貌の日に聖別された。この礼拝堂は、ガーディナー氏の石造りの建物として現存している唯一の建造物である。 ガーディナー氏は大正14年(1925)11月25日東京で逝去した。その遺骨は遺言により、自ら建てた日光真光教会の聖書台の下に納められている。昭和5年(1930) 3月26日逝去した夫人の遺骨も同じ場所に納められている。また、大戦中、米国赤十字特志看護婦として働き、飛行機事故のため逝去した孫娘のフランシス・ニコラス(元、京都教区ニコラス氏の長女)及び二女のアーネスチン・ガーディナーも同じ場所に眠っている。 |
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