⑥憾満親地蔵御首

匠町の浄光寺(4)

導き地蔵尊
導き地蔵尊
日光火之番防火隊碑
日光火之番防火隊碑
憾満親地蔵御首
憾満親地蔵御首

 導き地蔵尊は、地蔵堂に五体ある石仏の中で、中央の奥にある一番大きな石仏で、天文19年(1550)に造立される。現存する日光山最古の石仏といわれる。左の大きい石仏は、文禄5年(1596)、右は、寛永13年(1636)に造立されたものである。また、小さな石仏二体は、みみだれ地蔵と呼ばれ、耳病に霊験があるといわれている。
 次に、日光火之番防火隊碑とは、江戸時代、東照宮などを守るために組織された火の番のことで、東照宮造営の十六年後、八王子千人同心が、その役を命じられた。その勤務は、承応元年(1652)より慶応4年(1868)までの二百十余年におよぶ。その中で当地において客死した隊員も多く、その供養のために天保5年(1834)在勤頭の山本金衛門が、同志の協力を得て、この碑を建てた。日光市指定文化財である。こうした縁から八王子市と日光市は、昭和49年姉妹都市の盟約を結んだ。
 最後に、憾満親地蔵御首とは、明治35年(1902)9月の暴風雨は、日光でも大谷川を氾濫させ、ここ浄光寺の対岸の憾満ヶ淵では、並び地蔵や不動明王像、茶屋も流出、並び地蔵の列座の奥に置かれていた親地蔵二体もそのときに流された。そのうちの一体の御首が川床に埋没していたのを地元の人が見つけ、浄光寺に安置した。もう一体は、今市の小倉町、例幣使・御成両街道の分岐点に、追分地蔵として安置されている。
 享和3年(1803)多紀安長が来晃したときの『日光驛程見聞雑記』には、「百三十年程前に日光山憾満の大地蔵を押し流して此の地に至り、今でもそのまま置いてある」と記してある。
 しかし、問題もある。年号が合わないとか、地蔵の損傷具合、製作年代の特徴の不具合等々。
 そこで、このような地蔵の流出事件が幾度かあったと考えると符合するところではあるが……。


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