昭和44年(1969)、中本町・下本町・袋町・四軒町、そして、新しく出来た自治会 寂光を併せて「本町」という町名ができました。この本町の中の「下本町」、「中本町」、そして「袋町」に存在する“観音様”と”お稲荷様”を紹介いたします。広い範囲になりますので、地図を貼り付けて置きます。
まず、「沼尻観音」と「沼中稲荷神社」からはじめましょう。
1.沼尻観音について
ここには、「沼尻稲荷神社」、「下本町自治会公民館兼家体庫」、「弁財天等の石碑」もあります。
2.沼中稲荷神社について
燈籠・幟旗の外、高坏(高津久、沼内稲荷神社の記名あり)一式など、いろいろな祭典用具がありました。
また、沼中稲荷神社は、寛永12年(1635)に正一位の神階を京の藤森稲荷(伏見稲荷)から授与されており、「これが沼中稲荷の勧請された年とみられる。」と文献にあり、この稲荷の歴史も分かりました。
(参考文献:『日光東照宮の成立』 山澤学著)
沼の文字を冠した《沼尻》《沼中》と続いたので、《沼頭》もしくは《沼上》の存在を知りたいと思って、その情報提供のご協力をお願いしたところ、令和3年3月中旬に、我が自治会の某女史より”沼上稲荷神社”の存在情報が戴けました。その稲荷神社は、袋町の自治会で管理されているそうなので、4月2日に自治会長に立ち会って戴き、調べてまいりましたので、ご紹介いたします。
3.沼上稲荷神社について
この神社は、袋町の上の方に位置し、袋町自治会で管理しているお稲荷様です。
これで、″沼上“ ‟沼中” ‟沼尻”の3つが揃いました。この中の沼尻観音は、別にして3つの″沼上“ ‟沼中” ‟沼尻”には、稲荷神社が存在します。稲荷神社は、《地に付くといい、代替わりしても稲荷神社は、そのまま残っていくという》のが、一般的な考え方です。 すると、俄然、この”沼”に関心が出てきました。そこで、沼の存在やその規模、そして、埋め立てをして、現在のようになった時期などにも考えが広がっていきました。
では、沼の存在について調べていきましょう。
4.沼について
西町地区は、江戸期の町割の際に沼地・湿地であった場所を埋め立てて成されています。 その町割りの姿は、今も町並みに色濃く残っていますが、本町筋(現在の御用邸前通り)沿いに現在も残る「沼尻稲荷」が、「沼」の「尻」であったことを指しており江戸期以前の原風景をその名称で想起させつつ、ひっそりと今に伝えています。同地区には沼中、沼上のそれぞれの稲荷も存在します。
まず、沼の存在やその規模はというと、次のようになるでしょう。
本町の中の「下本町」、「中本町」、「袋町」の3か町にも跨る相当大きな沼の存在が浮かび上がります。また、インターネットを見ていたら、次のような画像が出てきました。この薄水色のところが低地なのでしょう。
この画像によると、「沼上稲荷神社」は、現在地より上の御用邸の中にあったものを移設したらしいので、この移設前のものを使いました。
続いて、埋め立ての時期ですが、《西町は、16世紀に低湿地帯に開発された渡内屋敷を原型にする。「日光山古地図」にみえる景観を獲得したのは、天海の入院以降、とくに東照宮造営前後と考えられる。その根拠には、天海が実施した給人に対する屋敷割を挙げる。・・・》と江戸期の町割りの際に沼地・湿地と出会った場所を埋め立ててなされていることがわかります。そして、その時期は、日光東照宮造営(寛永(1624~45)造替(1635~1636))の時と深く関係することになるでしょう。
寛文年間(1661~1669)の西町景観
この寛文年間(1661~1669)には、すっかり今の西町地区割になっています。勿論、現存する大正天皇時代の御用邸(明治31年(1898)、原町・上本町・上大工町とその付近の土地を買収してできる)は、まだ、影も形もありません。(参考文献:『日光の故実と伝説』 星野理一郎著)
ここで、この『日光西町観光ガイド』というホームページを作成していて、ここ日光の奥深さを常にといったらよいのか、折々といったらよいのか、考えさせられました。先ず、山内の二社一寺に代表されます世界遺産の人工美、次に、奥日光の自然美は、素晴らしいのは、勿論のことですが、第三に、この西町一帯に注目して戴きたいのです。西町は、コンパクトな中に歴史に裏打ちされた文化遺産・史跡が 満ち溢れているので、車を使った ”観光” ではなく、”箱庭”の西町を歩いて楽しんでいただきたいのです。
昨年、この地区に、国土交通省の肝いりで、「グリーンスローモビリティ」が導入され、今年(2022)は、本格的に動き出しました。この動きが、定着してくれることを願ってやみません。
また、日光東照宮ができてから日光は400年。しかし、勝道上人が、男体山を開山してから1200年、と長い歴史があるのです。
ちょっと流れを記してみましょう。
勝道上人が紫雲立寺(四本竜寺)を拠点として二荒山(男体山)頂に立つたのは782年、今から1200年も前である。山頂の遺跡からは鉄錫杖、独鈷杵 経筒などの仏具のほか国家的行事をうかがわせる古印なども発掘され、奈良時代から中央と直結する重要な祭祀がここで連綿と展開されていたことがわかります。
勝道上人の後は、空海(真言宗)や円仁(天台宗)などの教えが加わり、比叡山と肩を並べるような一大聖地となった。室町後期の山内には僧の活動拠点としての僧坊が三百六十もあったという。山内一帯の賑わいは想像に余りありだ。座主の後継者争いや宗教間の論争などもあったが、日光山は1200年にわたり荘厳なドラマが展開されてきたといえます。
その山内の足元に広がる西町地区はどんな歴史をたどってきたのでしょう。
時代に埋もれてしまっているが、一帯に目を凝らすと、竜神がまつられていたり、「大なる池水」に接する地などという伝承がある上に、「沼尻観音、沼上・沼中・沼尻という三つもの稲荷神社」が祀られています。 さらに、人影のない林の中に、上人が草庵を結んだといわれる八幡神社(766年)、空海がこの滝の裏で修行したという寂光寺(820年)、ここにはかつて七堂伽藍が立ち並んでいたといいます。今は明治の神仏分離令で「若子神社」となってしまいましたが、1200年の真の姿を刻む史跡があちこちに点在しています。
古地図には沼地を避けたのか大谷川に沿って一本の道が山に向かって延びています。勝道上人の開山以来いったい何人の人々がこの西町地域を行きかったのでしょうか。
東照宮が造営され、時代を映してきた沼は姿を消したが、人々の祈りは三つの稲荷神社に託され、今も西町の自治会・個人宅に大切に祀られています。
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