小林年保の生誕の地は、花石町なので、小林年保は花石町で取り上げるべきなのかもしれない。 しかし、田母澤御用邸を本町として取り上げた関係で、この田母澤御用邸に縁の深い小林年保は ここで取り上げることにしました。
この小林年保の顕彰碑は、山内の浄土院境内にあり、漢文で書かれている。そこで、読み下し文に直し、その後、現代文にして御披露いたすことにしました。
小林年保君の碑
内閣総理大臣正二位勲一等伯爵松方正義篆額
小林年保は竹石と号し子どもの頃の名は長次郎といった。父親は文岱と号し、母親の旧姓は田中氏で、嘉永元年10月に日光の田母沢で生まれた。成人して日光奉行所の役人になった。年保は性格が謹厳で身体は頑健であり、文武両道にすぐれ、理財の才能が豊かだった。
明治維新のとき、戦い敗れた徳川氏の家臣たちが下野の国から会津に逃れていった。私(石黒務)は官軍に従い、徳川の家臣たちを追撃し、4月1日に日光に来た。当時、日光山に立て籠もる旧幕府軍の勢いはまだ盛んで、日光神領内の民衆は、旧幕府軍に協力的だった。
戦争状態の中にあっても、年保は常に服装を正しくして東照宮の護衛に当たり、「代々日光奉行所に勤務して 東照宮に奉仕してきたのに、今になって危険が迫ったからといって逃げようとするのは誠に恥ずかしいことだ。」といい、落ち着き払っていた。
そして、剛毅な仲間数人と官軍の陣営を訪ね、「私たちは官軍が来ても不安動揺しないように人民を教え諭して 来たのだから、官軍もまた東照宮をみだりに汚すようなことはしないように」と、誠意をこめて申し入れたので、 官軍も承諾し、亡を□し、孤児や弱者を助けるなどしたので、村々は戦乱に巻き込まれることなく、安泰だった。
その直後、年保君は江戸に出て謹慎中の徳川慶喜に会い、東照宮が無事であることを報告したので、徳川慶喜は 大変喜び、年保を徳川家の執事として採用することになった。その後、静岡藩15等出仕に補され、兵庫県権大属に転じ、九州の小倉県、東海地方の三河県の典事を歴任し、才能を発揮して有名になった。
明治10年(1877)に官職を辞任した年保は、三菱に入社し、西南戦争のときには山口県令の関口隆吉に頼まれて 九州に赴き、政府軍のために活動して大変な功績を挙げた。その後、静岡第三十五国立銀行頭取となったが、年保が創立した銀行はその他にも3社ある。年保は嘗って遠江の国(現在の静岡県)の金谷原に50町の原野を 開墾して桑や茶を植えたりした。
明治20年(1987)には海防費として5,000円を献上し、横綬章を賜った。更に、明治23年(1890)3月には従7位に叙され た。こうして公私に献金した金額は15,000円余にもなる。それらは全て年保の国を思う真心があったからなのだ。
以前から肺を患っていた年保は、薬石の功なく、明治28年(1895)6月12日に死去した。享年48歳だった。遺骸は駿河国 安倍郡大嵒邦臨済寺に葬られた。年保の妻邦上氏には子が無く、側室の某が生んだ男の子竹雄が小林家を継いだ。その後、同志が協議して記念碑を建てることになり、私(石黒務)に碑文を求めてきた。年保と深く交際していた私だから、断ることもできず、年保の生涯を概略まとめて記し、銘を賦した。
参考石碑:『小林年保の顕彰碑』 生前の年保を知る人達建立
Copyright(C) 2020 日光西町観光ガイド. All Rights Reserved.