御用邸入口
御用邸庭園
御用邸内部
御用邸の襖絵
田母澤御用邸
明治31年(1898)4月、田母澤御用邸の建設が始まりました。この田母澤御用邸の敷地は、もと小林銀行のあったところで、原町・上本町・上大工町と花石町の一部を 含む約3万坪(約10万㎡)の広さのものであり、ここに約60戸の民家がありました。この広い場所を宮内省が買上げ、旧赤坂離宮の建物を移して新たに御用邸が 建設されることになったわけです。
ここで「何故、日光に御用邸が造られることになったのか」ということについて、栃木県観光課が昭和22年(1947)に編集発行した「旧日光田母澤御用邸の概略」という小冊子から抜粋することにいたします。
「日光町田母澤に御用邸をお建てになった動機について詳しいことは不明であるが、次の様に拝察されている。明治29年(1896)の夏、皇太子殿下には一夏を日光で お過ごしになった。当時の御宿舎は東照宮に近い日光山内御用邸(現在の輪王寺本坊)であった。この御用邸は明治26年(1993)にいち早く御用邸になったもので、 後には英国のプリンス・オブ・ウエルズ殿下の御宿舎になったところである。(皇太子)殿下には日光の自然の美しい風光と、東照宮を初めとする社寺殿堂の華麗な建築美を、殊の外愛好せられ、その上、夏涼しい日光に一夏をお過ごしになられたことは、殿下の御健康にも大変よろしかった由である。 従ってこれらのことが、皇太子殿下の御避暑のため御用邸を、日光に建設せられる主な動機となっている様に拝察される。日光に御用邸建設の儀が起こると、これを伝え聞いた日光町長は大いに喜び、地所を献納したいとて当時の町長小杉富三郎(小杉放菴画伯厳父)が町民を代表して願出た程であった。宮内省では地所献納は採納せられなかったが、候補地として小倉山及び田母澤の二つをあげ、地形、気象、水質等の調査を行い、その結果、明治31年(1898)田母澤の地に決定、27,582坪の土地を買収せられたのであった。田母澤の土地は、北に男体山、女峰山等の日光連山を仰ぎ、南は大谷川を隔てて鳴虫山に対し、西は寂光ノ滝の下流 田母澤川を以て境とする閑静風光明媚の地である。この地はもと原町、上本町、上大工町、花石町の一部で、山林原野の外小林銀行(小林年保氏)を始めとする 人家があったが御買上げにより現在の安川町に移って一集落をなすこととなった。土地買収と共に直に建築に着手せられたが、その建物は在来の小林氏所有の邸宅 と赤坂離宮より移されたものを骨子として、新築を加えられたものであった。
先ず明治31年(1898)4月工を起し、同年12月には本居及び御殿向が竣功し、32年(1899)6月30日には 本館その他の工事が終り、ここに大部分の工事が終った。次で、大正4年(1915)には水道が完備され、大正7年(1918)3月より大改造が行われて、9年(1920)11月に完成し今日に及んでいる。
本御用邸の主要部分をなしている天皇陛下御座所、御書斎及2階御寝室の一帯は赤坂離宮の内、梅の間、二位局の間、御鉄砲置場等約280坪が移築されたものである。赤坂離宮は、昔西園と称して紀州徳川家の名園として知られていたもので、離宮の中では最も古い歴史をもつものである。(後略)」
その結果、田母沢御用邸では、江戸・明治・大正時代の建築技術や、建てられた時代や用途によって異なる、いくつかの建築様式を見ることができる。また、明治以降の多くの公共建築が 石やレンガを用いた洋風様式で建築される中で、木造の利を活かした和風建築で建てられ、その後の近代建築に大きな影響を与えた。一方で田母沢御用邸は、和風建築の形態にありながら、 一部に絨毯やシャンデリアなどを用いた和洋折衷の生活様式が採り入れられている。明治維新以降の西洋化の中にあって、和風建築の伝統を活かしながら西洋文化との融合を図った建物は、 近代和風建築につながる貴重な資料を提供している。
※ 開園時間 9:00~16:30
※ 休園日 毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、秋の10~11月は 無休
※ 入園料 大人550円・小・中学生270円
※ TEL 0288-53-6767
田母澤御用邸こぼれ話
新しい町安川町の成立
明治31年(1898)4月、田母澤御用邸の建設が始まり、その敷地に住んでいた原町・上本町・上大工町の住民たちは移転しなければならなかった。しかし、日光は、狭隘な山間の町ですから直ぐに何処かへ移転というわけにはいきません。当時の西町一帯で比較的空き地があったのは、坊舎の建っていた跡地である 「善如寺谷(2町9反9畝4歩)・西谷(10町6反2畝15歩)・南谷(2町5反6畝28歩)」といった処だったようです。特に、「善如寺谷・西谷」の土地の所有者となっていた「伯爵 勝安房」宛てに、「特別御拂下之儀御願」という書類を、明治29年11月に提出することになりました。この願書に基づき拝借の許可が 下りたので、正式に「御所有地拝借願」を提出することになりました。 ところが、この願書を出した後、勝安房は死亡した(明治32年)ので、住民一同は、明治32年4月11日付をもって、公爵徳川家達宛てに同様な願書を提出しています。 これに対し、同日の日付をもって次のような文書が、徳川家から来ました。
ここに正式に徳川家と安川町住民一同との土地の貸借関係が成立したわけであります。この賃貸契約が出来て初めて、正式には新しい町「安川町」出来上がったことになりました。
しかし、明治30年(1897)8月3日、勝安房は、この新しく誕生した町に「安川町」と命名しておりますので、この年を「安川町」の誕生年としているようです。
参考文献:『安川町の百年史』 三木春男編
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