田母沢のほとり、妙道院釈迦堂の境内に「殉死の墓」と「徳川譜代家臣の墓」がある。 殉死の墓 この墓は、慶安4年(1651)4月20日、徳川3代家光公の死に際して、殉死した、堀田正盛・阿部重次・内田正信・三枝守恵・奥山安重の5名の墓碑である。家光公が、日光に葬られたことから、これらの殉死の忠臣も日光に葬られた。釈迦堂は、名物のしだれ桜が美しく、本堂なども格式の高い当時をしのばせる風情。 その西側には、家光公の忠臣24名が葬られ、24基の墓石が並ぶ。高さ3m以上もある 立派なものが、前後に12基ずつ整然と並んでいる。殉死の墓は、前列向かって左からの5基で、その5基は中央方向(向かって右)から順に、身分の高いものから並んでいる。 ◎ 堀田加賀守正盛(老中 佐倉城主 禄高十一万石 行年44才) ・・・「亥性院殿心隠宗卜大居士」 ・・・墓碑の裏面中央の文字「従四位下侍従兼堀田加賀守紀朝臣正盛」 ◎ 阿部対馬守重次(老中 岩槻城主 禄高九万九千石 行年41才) ・・・「芳松院殿全厳浄心大居士」 ・・・墓碑の裏面中央の文字「従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次」 ◎ 内田信濃守正信(御側出頭 禄高一万五千石 行年39才) ・・・「理明院殿光徳徹宗大居士」 ・・・墓碑裏面中央の文字「従五位下内田信濃守藤原朝臣正信」 ◎ 三枝土佐守守恵(御所院頭 禄高六千石 行年57才) ・・・「静心院一無了性大居士」 ・・・墓碑裏面中央の文字「従五位三板土佐守源朝心守恵」 ◎ 奥山茂佐衛門安重(小十人頭 禄高二百五十石) ・・・「真証院理哲玄勇居士」 ・・・墓碑左側の文字「奥山茂佐ェ門尉藤原安重」 堀田正盛は、20日の夜、自宅で嫡子正信につぎの辞世2首を残して切腹した。 堀田家で正盛に殉じた家臣は居ない。 阿部重次は20日夜、自宅で辞世を詠んで切腹した。 重次の介錯人、家臣の荒井頼母、その介錯人、小生の弥右衛門が重次に殉じた。別に3名の家臣の殉死者もあった。 天てらす月のひかりともろともに行すえすすし明ほののそら おしみてもなほ惜しむへき身なれともおしからぬ道に死ぬるものかな 内田正信も20日夜に殉死、家臣2名が正信に殉じた。 ゆくかたはくらくもあらし時をえてうき世の夢を明ほののそら さりともおもふおなしゆめなれやたた言の葉そかたみなるらむ 三枝守恵は、病気中で、23日に殉死、家臣1名が守恵に殉じた。 奥山安重は、21日に殉死した。 堀田正盛、安部重次、内田正信の3名が葬られた墓は台東区上野公園寛永寺の舊子院現竜院にある。 三枝守恵は、日光に葬られ、現竜院には碑のみ建てられている。 奥山安重は、東叡山の恵奥院に葬られた。 殉死は、一度に有能の家臣を失うことであり、後継者にとって大きい痛手となる。4代将軍家綱は、日本古来から美徳とされてきた殉死が、いかにおろかなことかを説いて、追腹の禁令を出した。当時としては大英断であったことが想像できる。 徳川譜代家臣の墓 これらの墓は、殉死5名と並ぶ前列に7基、その後列に12基が整然と並ぶ。前列 向かって 右端から、 藤堂高虎 寒松院権大僧都法印?賢高山 板倉勝重 従四位下行侍従兼伊賀守源朝臣勝重源英居士 土井利勝 宝地院前拾遺穏誉泰翁覚玄居士 酒井忠利 大性院月桂宗識居士 酒井忠勝 空印寺傑伝長英大居士 永井直勝 大雄院永井月丹居士 永井尚政 従四位下行信州大守大江姓永井崑山居士 後列向かって右端から 松平正綱 高林院俊庵宗徳居士 成瀬正成 白林院直指宗心居士 竹腰正信 正信院安誉道輝居士 高木清秀 釈性順居士 天野忠重 正等院道秀宗雪居士 中山信吉 源盛院道玄心円居士 稲葉政成 現竜院輝宗道範居士 板倉重昌 清庵源光大居士 渡辺守綱 心空道喜居士 渡辺重綱 光照院釈道清居士 諏訪部定吉 了華院道宗居士 安藤直次 見明院仙厳宗覚居士 以上の「殉死の墓5基」と「徳川譜代家臣の墓19基」が、日光市文化財3号として、昭和 35年8月22日に指定されている。なお石柵に囲まれた24基の他に、日光奉行の墓1基 が右端にある。妙道院は、寛永5年(1628)天海大僧正により、一山の菩提所として建立されたもので、寛永13年(1636)東照宮奥院にあった譜代家臣の石塔を、奥院下に 移して妙道院に預けられたもの。寛永18年(1641)妙道院2世住職祐誉上人が現在地 に移した。貞享元年(1684)の大火では、釈迦堂と石碑を残して全焼したが、将軍家に より再建された。現在堂内には、木造釈迦3尊が本尊として安置されている。釈迦堂は 創建年代不明だが、当初は山内の中山にあり元和3年(1617)に仏岩の開山堂南側に 移され寛永18年(1641)に現在地に移されたものである。 |
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