今は無き「日光軌道」
「日光軌道」が懐かしくて取り上げて見ることにしました。この「日光軌道」は、「日光市内電車」とか、ただ単に「市内電車」と呼んで親しんできました。私の幼・小・青年期の思い出の大きな部分を占めています。この「市内電車」は、明治43年8月、日光精銅所の輸送のために「日光電気軌道」として開通しました。そして、昭和43年2月24日に廃止になるまでの明治・大正・昭和の3代、58年間という長きに亘って、市民・観光、そして、企業への通勤の足という輸送機関としての重要な役割を果してくれました。特に、昭和初期に東武鉄道は、東武日光線を開通させ、東武日光駅から軌道・ケーブルカーを乗り継いで、明智平への一大観光ルートを築き上げました。箱根の西武鉄道や東急電鉄同様に、東武鉄道も、ここ日光で巨万の富を築いたのでしょうか。
日光軌道線は、JR日光駅・東武日光駅から馬返までの10.6Km、日光鋼索鉄道線(ケーブルカー)は、馬返から明智平までの1.2Km、 日光普通索道線(ロープウエイ)は、明智平から展望台までの0.3Kmというものでした。また、この日光軌道線「市内電車」は、単線だったので、5箇所に上り線と下り線の交換場所がありました。この下河原駅も上り線と下り線とが交換する場所の一つでした。この5箇所とは①日光警察署前②下河原③田母沢④安良沢(荒沢だったかな?)⑤白崖下でした。この外、JR日光駅と東武日光駅の間に車庫が、更に、白崖下と安良沢の間にも車庫が、それに当然のことながら清滝駅には、日光精銅所への引込線がありました。終点の馬返には、車庫があったかどうか忘れてしまいました。その後、調べた結果、ここにもあったそうです。
私の小学校時代(昭和20年代)の貨物電車には、力がなくて、遅いため、小学生がぶら下がったり、「市内電車」の通る合間に神橋のところの鉄橋を渡ったりと随分と無茶なことも 遣ったものだと今になって大反省をしています。
時代が変わって来て、「いろは坂」の開通や「第二いろは坂」の完成に象徴されますように、急速に自動車産業が発達し、あっという間に大規模化もいたしました。また、自家用車も普及して行きました。その反面、この市内電車は、斜陽の一途を辿って行ったたことは周知のとおりです。そして、「市内電車」が廃止になってから、2年後の昭和45年3月31日限りで、日光鋼索鉄道線(ケーブルカー)も後を追って廃止になりました。
経営の関係では、いろいろと問題もあったかと思いますが、いずれにしても58年間、観光客の旅情を慰め、日光の街に一つの情緒をかもし、私たちのよき足となってくれた「市内電車」が、姿を消したことは堪らない寂しさを感じます。バス路線にバトンをタッチして58年の歴史に終止符をうったこの「市内電車」に、お世話になったことを心から感謝し、その気持ちをこの紹介文に代えて懐かしい思い出といたします。
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