この「糠塚稲荷神社」は、大日橋を渡り、ぶつかった道を左に曲がると、直ぐのところにある。また、逆方向の「憾満が淵」の方からだと、「十日稲荷神社」の帰りの「憾満が淵」の一本上の道を北上すると、1~2分のところにある。
さて、この「糠塚稲荷神社」には、記録にすごいことが記されていましたので、紹介いたします。
「有宇中将物語」によれば、中将は、朝日姫に止められていた妻去川の悪い水を飲んでしまい、どうにか日光まで来たが力尽きてしまう。朝日姫はその亡骸を抱き涙にくれたが、その後上の代(今の和の代)に御殿を造り、朝な夕な日光連山を眺め、大日堂や糠塚を遊園地とし、思い出を風物に紛らして暮らしていた。だが、間もなく中将の後を追ってこの世を去る。二人は、この糠塚に頬塗られたそうな。
この糠塚は、別名「宝塚」とも呼ばれ、朝日姫が陸奥の国の長者の娘だったことから、姫の亡骸と共にたくさんの金銀財宝を副葬したと伝えられる。
この伝説を信じて塚を掘り返した人がいたとか。だが、宝はついに出てこなかったということだ。
また、天保8年(1837)刊の「日光山志」に《近来塚上に稲荷の小祠を祀るといひ》とあり、石祠の一つに宝永22年(1705)の年号がある。
糠塚稲荷のしもりをしていた小野さんの話によると、戦時中には出征する人々の祈願が後を絶たなかったとのこと。また、祭礼は狐山稲荷とも重なり、付近にはお墓参りの人々が溢れ、実に賑やかだったそうだ。
当時は大谷川に丸木橋が架けられており、対岸と自由に往来ができたということである。祭礼は旧暦2月の初午におこなわれる。
参考文献:『ふるさとの散歩道(第3集・1991)』 日光ふるさとボランティア編
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