⑦日光中学校

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日光中学校正面玄関
日光中学校全景
校庭西側から
日光中学校全景
校庭西側から
思い出のサクラの古木
思い出のサクラの古木

学校の沿革

地域の概要

教育目標
 高き知性をめざし、体を鍛え、心に鞭打つ生徒の育成
  ・かしこく
  ・やさしく
  ・たくましく
生徒数の推移

思い出

 この日光中学校を昭和33年(1958)3月に卒業した私は、卒業して早や62年も経ったことになる。 数年振り(令和2年(2020)9月14日)に、母校を訪ねて、このリニューアルのホームページ作りの資料として「生徒数の推移」と「新聞記事」とを戴いて来た。
 前回、12年前の“日光西町地区観光ガイド”というホームページ作りをした時に驚いたことが2つある。
 一つは、画像に取り上げた【サクラ】の木である。昔に思いを馳せ、身の周りの物に置き換えて、寸法を測って見たところ【サクラ】の直径は15cm位で、幹周りにしても95cm位だったと思う。ところが、今は、とんでもなく太くなっていた。後日、幹周りを実測すると、1本が、直径72cm、幹廻り225cm、もう1本が、直径92cm、幹廻り290cmで、2mの巻尺では、人手を頼んで測った程だった。
 二つ目は、【生徒総数】の違いである。我々のときには、東中学校が出来て、分離した後にも関わらず 「日光中三十年史」によると【生徒総数】は1,294名もいたようだなどと記してあった。
 今日もこの時の1つ目の桜を横目に、戴いてきた【生徒数の推移】の新データを見てみた。すると、99名だった数値が、更に3分の1の30名に減っていた。
 “寂しいなぁー!” 昔は、1クラスの人数も55~58名位いて、活気に溢れていた。古河系列の企業がこんなにも小さくなり、合理化されてしまったのだろうか。安良沢町に700戸、和の代に150戸、新細尾町に250~300戸、そして、中安戸町・丹勢町にも相当数の社員住宅があったことが懐かしい。
 そして、もう1つ戴いてきた「新聞記事」は、日光中学校の校歌を作成した【古関裕而】の記事だった。
≪魂の校歌 今なお継承≫として、NHKの朝ドラ『エール』のモデル古関裕而の作曲を大きく扱ったものだった。また、船村徹記念館(ニコニコ本陣)では、作詞西条八十との黄金コンビだったことにも触れた資料の展示中とのことで、“誇らしく感じて、同級生と放歌高唱したくなったなぁー!”

 参考文献:「日光市立日光中学校学校要覧」

 令和5年(2023)2月14日下野新聞「SOON」ニュースの地域の話題の記事による。
 日光中学校と(日光)東中学校とを統合し、校舎は(日光)東中学校を利用する。校名は、日光中学校とし、時期は、令和25年(2027)4月を目途とする旨、日光市教育委員会から『2月13日に議員全員協議会により決定した』と発表された。

 日光中学校の変則閉校に伴ない、国道120号線に掲げられた『スローガン』(R6.5.4に撮影)


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