⑮鎹(かすがい)山印の紋

輪王寺宮 旗
輪王寺宮 旗

輪王寺宮 旗
京都市 毘沙門堂蔵
皮製で16枚の菊花紋と山印(鎹山印)の紋が金箔押で表裏に据えられている。
比叡山・東叡山・日光山を兼務し度々の往復の道中に使用されたと見られる。

輪王寺宮 鋏箱
輪王寺宮 鋏箱

輪王寺宮 鋏箱
京都市 毘沙門堂蔵
旗と同様に輪王寺宮が通行する際に使用した鋏箱。衣装類を入れ、行列の先頭侍者に担がせるので先箱とも呼ばれる。箱蓋の覆いが皮製で、輪王寺宮の紋である鎹山印の紋と16枚の菊花紋とが金箔押されている。傷み具合から旗とともに道中で使用された跡が窺える。

輪王寺宮

三山(比叡山・東叡山・日光山)管領の輪王寺宮
輪王寺宮
三山(比叡山・東叡山・日光山)管領の輪王寺宮
輪王寺宮三山(比叡山・東叡山・日光山)管領の輪王寺宮

 徳川家康の霊を祀る東照宮の鎮座によって、 山岳信仰の霊場という伝統に加えて新たに江戸幕藩体制を支える聖地として再生した日光山であるが、慈眼大師天海の遺志 により承応3年(1654)、御水尾天皇の第三皇子の守澄法親王を日光山と東叡山の山主として迎えた。翌年守澄法親王は 天台座主に補任された上で朝廷から「輪王寺宮」の称号が与えられた。
 以後、江戸時代を通して13代にわたって法親王が 輪王寺宮をつぐこととなり、歴代の宮は東叡山・日光山を兼務するとともに、比叡山延暦寺にあって天台宗を統括する天台座主の座につくことを常とした。
 こうして輪王寺宮は、比叡山・東叡山・日光山の三山を兼帯したので、世に「三山管領宮」と呼ばれた。
 徳川家の霊廟を司る輪王寺宮は江戸時代における公武をつなぐ聖職者であったといえよう。
* 輪王寺宮は、三山を兼務したので「三山管領宮」とも呼ばれた。
* 輪王寺宮は、平素は江戸東叡山寛永寺本坊に住したが、毎年4月・9月・1月を期して日光山に登山して祭礼に臨み、しばらくは逗留して寺務を決裁した。
* 歴代の輪王寺宮は、幼少の時に比叡山の滋賀院門跡で学問修行をした後、京都山科毘沙門堂において得度、 もしくは隠居・入寂していることを常としている。

輪王寺宮家への御用商人

輪王寺宮家への御用商人
羊羹製造本舗
輪王寺宮家への御用商人 羊羹製造本舗

 この左にある【栞】は羊羹製造本舗である《綿半》のものであるが、しっかりと【鎹(かすがい)山印の紋】が使われ、輪王寺宮家への御用商人であったことを顕している。創業は天明7年(1787)とやらで、今から220年以上前のことであり、いわゆる老舗ということになろう。このような輪王寺宮家への御用商人は、羊羹製造本舗では、この【栞】の 《綿半》、湯波製造本舗では、《藤屋》、割烹料理屋では、《高井家》の3軒と聞き及んでいる。
 また、この3軒中2軒が、この西町地区にあり、西町としては自慢のできる素晴らしいことでもある。 《綿半》は、現在、安川町にあるが、この『西町のホームページ』では、以前あった本町で扱うことにしたので、併せてご容赦ください。
 ここで、《綿半》の栞に輪王寺宮家への御用商人になった経緯が記載されて居りましたので、ご紹介して置きます。
 「弊店の庭先に古来冷泉を湧出し、極めて清浄にして大宇と雖も混濁する事無し。甘味家業を始めて数世の後、今より5世前半兵衛の考案に拠りて此の泉水を汲み、練羊羹を製造し試験すること再三なるに酷夏を経るも佳良の風味を失わず且つ変味腐敗等無之に付、 天明7年(1787)4月3日を以って本業を開始す。
 当時、日光宮輪王寺法親王殿下に献せしに、殿下深く其の風味の佳良にして永く貯蔵し置くも変味腐敗等の憂い無きを御嘉賞あらせられ、其の山印を給い御用と称せしむ。ここに於いて専ら此の業に従事し年年歳歳精製を加ふること最もつとめたり。
 元来法親王殿下は1ヵ年3回の御登晃を常例となし、其の都度御進物用として弊店練羊羹を諸侯方に贈与せられたる拠り、諸侯の代参又は登山の公家武家に至る迄該品を当山進物の随一と称せらるる名誉を得たるに拠り嘉永2年(1849)4月11日、二代半兵衛保利に至り嵯峨御所の御令旨を奏して、下野大椽に任ぜられたり。之れ奇特の神水と精製の功とによって此処の栄誉を得たるものなり。
 これに依りて諸侯諸家納むる羊羹の箱書きは総て嵯峨御所の御令旨に拠り下野大椽藤原保利の名を用ひ綿屋半兵衛 常称綿半(わたはん) と号す。



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