⑩文豪連理塚

匠町の浄光寺(5)

文豪連理塚
文豪連理塚

 文豪連理塚とは、田岡嶺雲(自由民権運動提唱の評論家)と白河鯉洋(元福岡九州日報編集長)は、大の親友で、嶺雲が日光で客死したため共に葬られた。二人の墓標には、次のような句や歌が刻まれている。

        日光文学散歩路 昭和61年(1986)設定 日光市

 最近、田岡嶺雲については、新しい資料が見つかったので、追記させていただく。

 まず、明治中期から大正時代にかけて、文芸評論家、思想家として、鋭い論評で活躍した田崎嶺雲は、明治42年(1909)8月下旬から11月にかけて、栃木県日光町の稲荷町で、病気療養する。これは元日光町長であった小杉放菴の父・富三郎の世話によるものだった。その後、明治45年(1912)1月には、大町桂月・笹川臨風・白川鯉洋らを発起人とする、病床の嶺雲を見舞う集まりがあった。小杉放菴ほか、鹿島桜巷・小柳司氣太各説・国府犀東・堺枯川・佐々醒雪・笹川潔・三遊亭低圓歌・千葉秋浦・得能文・沼波瓊音らが参加していた。この年の7月下旬に、同じ日光町の板挽町(現匠町7番5号)1588番地に寄寓されていて、同年9月7日午前3時45分、不帰の客になられた。避暑を兼ねての結核療養と記してあった。これらの資料だけでは、稲荷町と板挽町のどちらがメインだったのか分からないが、3つの文献が見つかったので、ご披露します。

座禅院権別当の墓
座禅院権別当の墓

 次に、座禅院権別当の墓とは、室町時代およそ200年にわたって日光山を管理したのは座禅院で、ここの住職がお留守居権別当として座主に代わり山務をとっていた。権別当15代のうち現存するのは6基のみである。日光市指定文化財になっている。

武田久吉の墓
武田久吉の墓


 最後に、武田久吉の墓は、浄光寺の墓地の右手、最初の石段を上った左の白御影石作りのものである。正面に「武田家之墓」左面に「武田久吉 昭和17年(1972)6月7日没 享年89歳」とある。久吉は、明治初期の外交官アーネスト・サトウの次男で、日本山岳会の創設者の一人。植物学者。多方面にわたる著書がある。
 若い時から日光に遊び、別荘を持ち、こよなく日光を愛し、生前から日光を墳墓の地と決めていたほどである。
 因みに、アーネスト・サトウは、明治14年、アルバート・ホーズと共著の形で、『A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN CENTRAL AND NORTHERN JAPAN』を発行した。
 これは、外国人向けの最初の本格的な、信頼性の高い案内書として評判となり、外国人の内地旅行に拍車をかけ、日光もこの恩恵を受け、明治10年(1877)代後半から、外国人の避暑客がぐっと増すようになった。明治19年(1886)と言えば軽井沢には未だ最初の避暑客が訪れたくらいの年である。


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