⑪日光奉行所跡

日光奉行所跡の碑の近景
日光奉行所跡の碑の遠景
 西参道の交差点の北側、垣根の中に標柱が立っていてその場所が、日光市の文化財1号として昭和35年8月22日に指定された、日光奉行所跡である。日光奉行所の起因は、3代将軍家光の遺臣梶定良に始まる。梶定良は、承応元年(1652)7月日光山守護職(日光御宮守、日光御宮番、日光御廟所定番などともいう)となったが、それから40余年、元禄11年(1698)5月に、87歳で没するまで、日光廟に尽くした。その後、幕府から任命された日光目付が、その跡に住んだが、 元禄13年(1700)8月、日光奉行所が置かれるようになり、梶定良の旧宅を改めて、日光奉行所の役宅とし、元禄14年(1701)8月、御奉行屋敷が竣工した。寛政3年(1791)になってから役宅に接して役所が営まれ、役宅と役所を兼ね備えた江戸時代通例の役屋敷が整った。これより、日光奉行所は「日光御役所」とも称された。
 その構えは、長屋造りの表門があり、それをくぐって石畳を踏めば、正面に建坪二百坪の奉行の住居、御奉行役宅があった。門をくぐって右側、すなわち役宅の東南がわに接しては、建坪約百坪の役所があった。奉行所の両隣りには、米蔵、組同心長屋、組頭役宅・日光学問所などがあり、組頭役宅の南側道を隔てて、日光火之番屋敷があった。役所には、組頭詰所・次之間公事方定式方・御収納方・裁許場・溜同心詰所・訴所・鉄砲置場・勝手などの部屋があり、裁許場の南面には、白州(広さ13坪余)が設けられ、仮牢があった。また屋敷の東北隅には、土蔵があり、役宅玄関のそばには、火之見が設けられていて、表門東寄内側に、消防用具の置場があった。役宅背後にあった稲荷神社だけが現存している。
 日光奉行所は、老中に属し、定員2名、役高二千石、役料五百俵、1名ずつ交代で日光に勤務した。任務の内容は、それより以前に在勤した日光目付や、梶定良のした職務を受け継いだもので、日光廟の管理を主要任務とした。つまり、日光廟の警備・営繕・催事などすべてを行ない、日光領の行政と、下野・上野両国にわたる幕府領の訴訟裁判をも行った。ただし、日光領の行政は、寛政3年(1791)から行ない、それ以前は、日光山の代官職、日光目代が執り行った。日光奉行のもとには、組頭兼目代2名・吟味役7名・組同心5名・支配同心36名・御神馬別当1名・御掃除頭2名・7か所御所同心42名・大沢御殿番2名などがいた。
 明治元年(1868)日光領は、官軍の軍政下に置かれ、8月に日光領はすべて、明治政府の真岡県管下に属することとなった。9月には、知事出張役所となり、ついで翌2年(1869)2月には、真岡県を廃して、日光県が置かれることとなり、その庁舎に当てられた。4年(1971)11月、廃県とともに、建物を取り壊したため、旧幕府時代の遺構は今日見ることはできない。
 参考文献:『日光 社寺と史跡』 沼尾雅彦著
新井ホテル、後の日光ホテル分館か?
すると新井ホテルが買収した日光ホテルの場所はどこになるのか?
明治30年(1897)頃か?
慶応2年生れ(昭和6年没(66歳))の人が写っている
新井ホテルと日光ホテル(絵葉書表)
明治41年の大増築後の日光ホテル
大正10年(1921)頃か?
大正15年には焼失している
ホテル観光閣、入口
のちの晃楽荘(入町倶楽部)
ホテル観光閣、正面右から
のちの晃楽荘(入町倶楽部)
ホテル観光閣、正面左から
のちの晃楽荘(入町倶楽部)
日光山輪王寺の密法殿

日光奉行所跡のその後

 日光奉行所の跡地には、日光ホテルができた。この日光ホテルは、明治21年(1888)開業したが、大正15年(1926)1月4日消失する。そののち、「観光閣」が建設され、内外の観光客を迎えて、ホテル業が営まれる。しかし、昭和15年(1940)3月観光客の激減などの影響により、ホテル経営が困難になったため、古河電工日光精銅所に売却、古河電工は、晃楽荘(入町倶楽部)と改称し、社内の出張者や外来者の宿泊施設として利用した。この間に昭和21年(1946)12月には、徳川家正氏から土地を買収した。建物の老朽化やその他の事情により、平成6年(1994)1月に建物を解体、撤去し、跡地は、公園化されていた。現在は、平成21年(2009)2月1日着工、同年8月31日竣工で、日光山輪王寺の密法殿ができている。公開はされていない。
 参考文献 : 『安川町百年史』 三木春男編、 寺報『日光山輪王寺 第79号』

日光ホテルの変遷

 明治29年(1896)、安川町の先祖が勝安房宛てに提出した「特別御拂下之儀御願」の中に、「閣下御所有地日光ホテル前通り」という部分があり、その文書から見ると当時すでに 「日光ホテル」があり、営業を行なっていたことが分かりますとある。
 そして、参考までにその「日光ホテル」の変遷をたどってみたいと思いますと次のように まとめてあるので、記述しておきます。
◇明治21年 四軒町に日光ホテル開業(社長加藤昇一郎資本金2万円客室約20       室)
◇明治25年 四軒町に新井ホテル開業(社長新井秀徳 建物3棟 客室16室)
◇明治27年 新井ホテルは2階建洋館1棟(12室)新築
          (この建物の位置が旧日光奉行所跡地)
◇明治30年 新井ホテル、2万円で日光ホテルを買収
◇明治31年 日光ホテルを買収した新井ホテルは日光ホテル名でホテル経営続行
           新井ホテル本来の建物は日光ホテル分館とす
◇明治41年 日光ホテルは洋室26室、和室8室を大増築し、客室数61室となる
◇大正12年 日光ホテルは株式会社を解散
◇大正13年 日光ホテルは高橋常次郎・新井信夫両名の個人所有となる
◇大正15年 1月4日 日光ホテル焼失
 
 参考文献:『安川町百年史』 三木春男編 (資料提供:日光市役所福田和美氏)

日光奉行所の判例

 江戸時代を通して、日光領が特にということではないが、殺し・盗み・密通・賭博といった犯罪が多発し、それに応じた過酷な刑罰社会が形成されていった。寛政4年(1792)から慶応元年(1865)までの72年間に、日光領の刑死人は115名にものぼる。よく「社寺門前に売女」とか「名山あるところに賭博あり」などといわれるように、日光参詣や札所巡りなどで人々の往来が激しい日光は、これらに纏わる事件も多く発生した。

日光奉行所の御仕置き例

  参考文献:『日光の司法 御仕置と公事宿』 竹末広美著

珍しい宿 公事宿

 日光には、日光奉行所があった関係で、この日光奉行所に隣接した 四軒町・原町・袋町・下本町には、公事宿 と呼ばれる珍しい宿屋があった。宿屋の屋号は、大黒屋・米屋・錣屋・升屋・山本屋・石屋の6軒で、一般の旅人は宿泊させず、領内の村から訴訟のためにやってくる 人々だけを宿泊させた宿だった。また、それだけではなく、公事宿の御主人は、訴訟に必要な専門知識 や技術・情報を提供したりもして、現代の弁護士のはしりでもあったようです。


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