③日光杉並木寄進碑

日光杉並木街道寄進碑

杉並木寄進碑

  杉並木寄進碑はここ神橋わきの外、日光街道の起点である日光市山口、会津西街道の起点大桑、そして例幣使街道の起点としての小倉(こぐら)にある。
 碑文にいわく、


 この碑は松平正綱の嫡男正信が建立しました。寄進碑は杉並木とともに特別史跡に指定されている。

松平正綱
 松平正綱(まつだいら まさつな)は、江戸時代初期の幕臣・勘定奉行。相模国玉縄藩初代藩主。 大河内松平家本家初代。世界最長の並木道として知られる日光杉並木の寄進者として知られる。
略歴
 天正4年(1576)、代官大河内秀綱の次男として遠江国で生まれ、天正15年(1587)、12歳のときに徳川家康の命で長沢松平家の養子となって松平姓を称し、文禄元年(1592)より家康に近仕。側近として重用されて板倉重昌・秋元泰朝と並んで駿府城での家康の近習出頭人の地位を占め、慶長14年(1609)頃から勘定頭の任も兼ねる。
 2代将軍徳川秀忠の下でも勘定頭として活動し、相模玉縄藩2万2100石を領した。元和6年(1620)、東福門院和子の入内に供奉する。寛永4年(1627)の蒲生忠郷や同9年(1632)の徳川忠長の改易には上使として派遣される。
 寛永10年(1633)9月に同僚の伊丹康勝とともに勘当を言い渡されて一旦は失脚したが、翌年5月に赦免され復職。
権勢と失脚
 「藩翰譜」には、「天下郡國の吏務、貢賦の結解(けちげ)を司り、要劇の職にありて、終に一時の淹滞もなし」と評されている。
 慶長15年(1610)に駿府城が火事になった際、納戸から取り出した晒布を結んで石垣に垂れ、城中の者が脱出できる手筈を整えるなど、才知に富んでおり、なおかつ財政にも明るかったことから家康の覚え めでたかった。また、家康の死後は敬遠された駿府衆の中では唯一、秀忠や江戸老中にも重用される。
 幕府の財政政策はもとより天領の管理も担当する彼の立場は、後の勘定奉行の前身とはいえ比較にならないほどの権勢を誇り、幕閣の会議を自邸で主宰したりなど格式と実力は老中に匹敵した。
 しかし、不幸にも3代将軍徳川家光にとっては権力確立の妨げになる存在とされ(養子の信綱は家光の側近だったにもかかわらず)、幕閣から排除されてしまうのである。
正綱と日光東照宮
 家康の没後は久能山への埋葬や、駿府城に遺された莫大な遺産の管理を担当。元和3年(1617)の日光への改葬にも 付き従っている。勘定方首座の任を外れてからは、家光の意を受けて日光東照宮の造営に従事した。
 寛永2年(1625)から東照宮への参道に杉の植樹を開始し、24年もの長い期間亘ってそれを続けた。杉苗は紀州熊野産で、20万本の中から2万4300本を街道に植樹したといわれる。そして、現在の日光杉並木の様相を整え、日光東照宮に寄進した。
 慶安元年(1648)にはそれを記念する石碑の建立を志し、林羅山に碑銘を依頼したものの、完成を見ることなく死去した。
 参考文献:『フリー百科事典「ウィキペディア」』、『日光 社寺と史跡』沼尾正彦著

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