①神橋

正面からの早春の神橋
右岸からの神橋
左岸手前からの神橋
下からの神橋

 

 日光の玄関口を飾るにふさわしい神聖な美しい橋で、絵ハガキなどでおなじみの橋。 山口県の錦帯橋・山梨県の猿橋とともに日本三奇橋の一つともいわれる。華厳ノ滝の 下流大谷川の清流にかけられていて、太郎杉をはじめとする山内の老杉群を背にして、 朱塗りの美しい姿を見せてくれる。橋の長さ28m、幅7m橋桁が黒のほかは総朱塗りで あとは金と黒の金具が使われている。

 この橋の起源は、勝道上人が10人の弟子とともに ここを渡ろうとしたとき、急流で橋がなく、難儀していると、深沙大王が現れて、 青赤二匹の蛇を対岸まで渡し、そこに山菅を生やして橋とし、勝道上人一行を渡した という伝説に始まる。そこに丸木の橋を架けて「山菅橋」とか「山菅の蛇橋」と呼んだ。 今から約1200年前の神護景雲元年(767)のことである。その後40年たった大同3年(808)に 国司橘利遠がこの橋を立派に架け替えた。

 その時の大工棟梁・山崎太夫長兵衛(通称沼尾長兵衛)は、工法を工夫して、川の右岸の岸壁にある自然の穴を利用し、ここに乳の木(橋桁)を差し込んで、 橋桁をもたせることとした。以来16年目ごとに橋を架け替えることとなり、それが明治まで続く。架け替えに際して、桁を差し込む作業は、神秘な神事として深夜に灯火を消して行なった。以後秘法を伝える沼尾長兵衛の子孫がこれに当り、橋架け長兵衛と呼ばれた。その子孫は、現在市内七里にある沼尾石材店だといい、神橋の古い図面が残されているという。
 神橋が現在の形に改造されたのは、寛永13年(1636)で、この時から左右の岸にそって 石の柱が立てられた。そしてこの時から朱塗りとなり、前後に柵も作られて祭事・例幣使・ 将軍などのほかは一般の通行を禁じた。一般の通行には、川下に仮橋を作ったが、 それが現在の日光橋の起源である。正徳年中(1711~1715)「日光八景」が選ばれた時、「山菅の夕照」が第一に選ばれている。寛永13年(1636)の改造に際しては、材木1714本、 大工その他の人夫14万4千9百98人、そのほかくわしい記録が残っていて、橋一つでも 大変な費用が掛けられていることが分かる。寛永の後、万治2年(1659)・天和2年(1682)・ 元禄3年(1690)・正徳3年(1713)・元文5年(1740)・宝暦9年(1759)・明和9年(1772)・ 安永8年(1776)・寛政4年(1792)・文化3年(1806)・同11年(1814)・文政7年(1824)・天保13年(1842)に改造され明治14年(1881)に修理したが、35年(1902)9月28日の洪水で、寛永に作った石柱とともに流失してしまった。現在の橋は、明治37年(1903)に架けられたものである。昭和に入って太平洋戦争も終盤に近づいた昭和19年(1944)、日光電気精銅所の軍需用品を運ぶため、神橋と日光橋の間に、15トンの電気機関車の通れるカーブの専用鉄橋を作った。この時、山内側の柵を一部変形した。
 戦後の43年(1968)、日光軌道線が廃止になり、このめずらしい鉄橋も取りこわされて今はない。昭和47年(1972)9月26日、寛永13年(1636)以来、実に336年ぶりに神橋の一般人通行の禁が解かれ、昭和57年(1982)3月に迎える 二荒山神社男体山頂鎮座1200年祭事の一つ登橋の制度ができ、とにかく神橋の上に登ることが許された。9月26日、登橋始めの式典が行なわれ、同年10月1日から行事奉賛の形で申し出れば一般人も登れるようになった。 このため神橋の手前の小広場が整備され、そこに大きい「二荒山神橋」という名柱が復元され、小屋と石垣が組まれた。その石垣のすぐ上に、半ば埋まって、「下乗石」がある。

神橋の手前ですべての人が馬を降りるべく規制の意味で建てられた石碑である。神橋および下乗石は、 昭和19年(1944)9月5日、国の重要文化財建造物に指定されている。
 参考文献:『日光 社寺と史跡』沼尾正彦著
現在の日光橋
電車が日光橋上を走っている珍しい画像本宮瀧のところには「紅白」の旗を持った信号係がいたとか(昭和19年(1944)以前)
現在の神橋の架設方法
古図による神橋の架設方法
包帯をした神橋
(何処か怪我でもしたのかな?)
最後の雄姿花電車

神橋・周辺点描

 神橋は、寛永13年(1636)東照宮の大造営が終わったとき、出羽藩主酒井忠次が「山菅橋」を架け替えて、今日のような形の橋としたが、そのとき山菅橋を「神橋」と改め、一般人の通行を禁じた。そして一般人の通行には、下流に素木の仮橋を架けた。この仮橋が日光橋の起源である。
 その後足尾銅山の全盛時代には、国鉄日光駅から、細尾峠の下まで軽便トロ軌道が作られて、その専用に橋が仮橋のさらに下流に作られた。青く塗られたので「青橋」と呼ばれ、赤い神橋・ 素木の仮橋・青いトロの橋と3つ並んで、壮観であったという。明治35年(1902)9月の洪水では 三橋とも流され、仮橋は鉄橋に架け替えられて「日光橋」と改称した。明治43年(1910)には 日光電車ができて、その軌道が日光橋を渡り、直角にまがって太郎杉の前を通るようになったが、太平洋戦争の後期になって、精銅所から軍需用品を運ぶようになってからは、日光橋から軌道を はずして、神橋との間にカーブのある専用鉄橋を作って軌道を走らせた。昭和19年(1944)のことである。
 戦後は、自動車が急増して、狭い日光橋では交通の渋滞をきたすので、日光橋を架け替えることになり、昭和36年(1961)6月工事に着工、新しい日光橋が昭和37年(1962)12月14日完成した。新日光橋の架橋工事には、1年半の歳月と、6,040万円の工費がかけられ、西町側は巾32m、東町側は巾16mとバチ形の鉄桁橋となった。 すぐ上流にある神橋との関連を考えて、橋の欄干にはギボシ形の黒御影石を使うなどの考慮が払われている。 宇都宮からの国道119号線は、この橋で終わり、奥日光方面へはこの橋から120号線となる。
 参考文献:『日光 社寺と史跡』沼尾正彦著

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